最初は里芋と魚だった!?県民も意外と知らない!?山形といも煮の歴史

いも煮味噌

最初は里芋と魚だった!?江戸時代から続く いも煮文化

秋になると川原や公園で鍋を囲み、いも煮を楽しむ― 山形県民にとっては子供のころから慣れ親しんだ文化ですが、その歴史をひも解いてみると意外と知らないことだらけ。
江戸時代に北前船で運ばれてきた棒ダラが最上川を上り、その地の里芋と出会ったことがルーツだったり、牛肉入りのいも煮が最先端グルメだった時代があったり…。

いも煮の中には、たっぷりと入った具材同様、たくさんの歴史と文化が詰まっています。味はもちろん、いも煮が生まれたきっかけや、当時の人々の暮らしに想いを馳せて頬張れば、いつもよりじんわりと染みる…そんな一杯になるのではないでしょうか。

山形・いも煮文化の知られざる歴史

江戸時代までは芋=里芋。古くから日本で栽培される馴染み深い野菜でした。
ではそんな里芋を使ったおいしい芋煮はいつどのように生まれ、山形の地で愛される存在になったのでしょうか。歴史を紐解いてみましょう☺

~1693年

受人を待つ船頭たちが、積荷の棒ダラと名産品の里芋を煮て宴を開いたのがいも煮のルーツと言われています。

【鍋掛松(こしかけまつ)】現在の中山町にある、最上川を利用した舟運業の終着港にある松。平安の昔から鍋をつるしていたという逸話もあります。初代は倒伏しており、現在は5代目。

1845年

当時の山形城主・秋元志朝が館林(群馬県)に移封される際に別れの宴を催し、いも煮をふるまったそう。こちらがいも煮会の起源という説も。

仏教の教え(肉食禁止)や労働力としての面があり、庶民の暮らしに牛肉が広まるのは明治後半のこと。いも煮発祥当初は「里芋」を使う以外、特に明確な決まりはなかったのです。

1875年

米沢の牛をロンドンの貿易商人が絶賛!山形で畜産が発展していきます。

1892年ころ

川原でのいも煮会が定着します。

当時は旧制高等学校の生徒や駐在していた兵士たちがいも煮会を開いたり、商談やお見合いなど、様々な用途でいも煮会が開かれるようになっていたそうです。

1920年代~

牛肉を入れ始めたのがこのころ。山形内陸部は牛の畜産が盛んで肉食が広まるのが早く、特に牛肉入りのいも煮は流行最先端グルメでした。

この頃には入れる具材が定番化していたようで、「里芋・ねぎ・牛肉・こんにゃく」を入れて煮たという証言や記述が残っています。

一方、養豚が盛んな山形沿岸部にある庄内地方では、豚肉に合うよう味噌ベースの味付けに変化していきます。

1945年~高度経済成長期ころ

戦後は貧しく、肉の代わりにイカを入れることもあったとか。

また、終戦~高度成長期ころはいも煮会が開かれなくなっていきます。

1974年

伝統的ないも煮の研修会が開催され、川原で行ういも煮会が復活!

1977年

「唐松観音堂」の復元を祝って山形いも煮会祭が開催されます。

「唐松観音堂」とは平安時代、清水寺を手本とし、切り立った山の中腹に創建された観音堂。山形十景のひとつに数えられます。

1989年

第1回「日本一の芋煮会フェスティバル」が開催されました。

イベントで使われる大鍋は「鍋太郎」と名付けられており、初代は直径5.6m!十分に規格外の大きさですが、現在はさらに大きい直径6.5m、重さ4tの3代目鍋太郎が活躍しています。

2018年

日本一の芋煮会フェスティバルで「8時間で最も多く提供されたスープ」ギネス記録達成しました。(12,695人)

脈々と続く山形のいも煮をぜひ味わって!

時代や地域によって形を変えながら、山形県民にとってなくてはならないソウルフードになった「いも煮」。山形の秋の風物詩にはこんな知られざる歴史があったのですね。知れば知るほど「へぇ!」というエピソードがたっぷりで、ますます芋煮が好きになりそうです^^

清川屋のいも煮は、ご家庭で調理する期間限定の本格的な芋煮セット(ご注文受付期間の目安:9月上旬~11月上旬頃)から、通年で楽しめお土産にも人気のレトルト商品まで取り揃えております。
特に庄内地方で食べられている「豚肉みそ味」の芋煮を取り扱っている店舗は希少とか…♪ぜひこの機会にお試しくださいね!

この記事で紹介した商品はこちら

清川屋のいも煮

清川屋では、芋煮の材料をお届けする旬の時期のミールキットのほか、料亭が作る上品な芋煮や、あたためるだけで手軽に楽しめるレトルトまで幅広くご用意しています。ぜひ、山形県民が熱愛する郷土の味を楽しんでくださいね。

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